フィルムカメラ持参の鉄道旅_1 から続きます。近鉄(今は三岐鉄道)北勢線からスタートして中小私鉄の記事が続いておりますが、もう少しお付き合い願います。
下津井電鉄
過去記事の”何故か四国”で触れている鉄道であります。開業当初は宇野線・茶屋町から児島経由で下津井まで走っておりましたが他のローカル線と同様に車との競争に負け、1972年に茶屋町⇔児島間が廃止されたのであります。歴史的な経緯は宮脇俊三先生が”時刻表おくのほそ道”にて述べられておりますのでご一読いただければ幸いです。
かつて茶屋町に下津井電鉄ホームが残っており、廃線区間代行バスの発着場として利用されていたのを宇野線の車窓から見た覚えがあるのですが、それが四国初上陸時(1979年秋修学旅行)のことなのか、二度目の四国上陸時(1986年暮れ)のことなのか記憶に無いのでありまして、いずれにしても下津井電鉄の初訪問は瀬戸大橋開業後であり、その時既に下津井電鉄ホーム跡は影も形も無かったのであります。
その初訪問時、瀬戸大橋開通に伴う観光客の増加を当て込み、新車(メリーベル号)導入や(確か)琴海駅の交換設備の復活、デザイン切符の導入等打てる手は打って頑張っていたのですが武運拙く1991年12月31日を以って廃止となってしまいました。写真撮影のために移動は全て鉄道利用で日を変えて再訪する等、わたしも微力ながら協力したつもりだったのですが・・・。
尚、下津井電鉄と共に四国往来ルートの一角を担っていた下津井・丸亀航路は1999年8月まで粘ったものの廃止となってしまいました。余談ですが某アイドルグループの香川県坂出出身メンバーに下津井・丸亀航路を知っているかと尋ねたところあっさり「知らん。」と返されました。1995年7月生まれなので無理もないことではありますが。
片上鉄道
片上鉄道に出向いた理由は旧型のディーゼルカーでありまして、鹿児島交通や別府鉄道・野口線が既に廃止済み(共に1984年)とあって旧型ディーゼルカー乗車のチャンスがいよいよ貴重になったためであります。旧型客車や旧型電車もひたすら減り続けてはいたものの、旧型ディーゼルカーよりはまだ数が多く残っていた印象があった中での片上鉄道訪問でありました。片上鉄道と言えば廃止の延期が思い出されるのでありまして「死せる片鉄、生ける鉄道ファンを走らす。」状態でありました。
ただ大方の鉄道ファンの間で片上鉄道と言えば旧型ディーゼルカーよりもブルートレインの方が有名であったような気がするのでありまして、宮脇俊三先生も”時刻表おくのほそ道”におきまして片上鉄道訪問にあたってはブルートレインにターゲットを絞っておられたのであります。
最初の訪問では特に気にも留めず日没後の旧型ディーゼルカーの乗り心地を楽しんだり、周匝茶臼山からの絶景を撮影して悦に入っておりましたが、”時刻表おくのほそ道”に記載された”展望車”(正確には展望デッキ)なる言葉が頭からどうしても離れず、結局津山から片上鉄道柵原駅までタクシーを飛ばすという宮脇先生と同じパターンでブルートレインの客となったのであります。(展望デッキでの走行中写真撮影は急加速に注意であります。)
冒頭に記載した通り片上鉄道の廃止は1991年3月末から6月末まで三か月延期されたのでありますが廃止間際に訪問する機会に恵まれまして、けっこう珍しいと思われる三連の旧型ディーゼルカーを撮影することができたのであります。
片上鉄道廃止の話が進んでいる頃でありますが、ごく一部のファンの間でTIサーキット英田(現 岡山国際サーキット)と組めないか?という話が出ていたような覚えがあるのですが、今地図を見てもちょっと無理が有りそうですねぇ。
小坂鉄道
同和鉱業つながりで小坂鉄道であります。こちらについては鉄道よりも康楽館を見ることが主目的で近くにローカル私鉄が走っているからセットで出向くことにしたのであります。康楽館は”旅行けば 小沢昭一的こころ”の”小坂、浅虫、恐山、東北おどろおどろ旅”の項に出てくる1910年(明治43年)に建てられた小坂鉱山の厚生施設(芝居小屋)でありまして、詳細は同書を参照いただきたいのであります。(みもさん、ここでライブ打ってくれないかなぁ。どこぞのグループの出張公演でもいいんだけどなぁ。)
さて、小坂鉄道でありますが当然宮脇俊三先生にも足をお運びいただいております。御著書である”車窓はテレビより面白い”にて取り上げられておりますが、そのページ数はイラスト込みで2ページ弱と非常にあっさりしたもので、実際に乗車しても山間をローカル線のディーゼルカーで淡々と進んだ感じでありました。
宮脇先生との最大の違いは先生が駅待合室(及び車中)で出会った秋田美人が居なかったことでありますね。まぁ、こんなものでありますよ。
岩手開発鉄道
日本初の第三セクター鉄道である三陸鉄道の南リアス線(盛⇔釜石)と北リアス線(宮古⇔久慈)に乗ろうとスケジュールを考えていた時、盛からちょいと変わった面構えのディーゼルカーがあることを思い出したのであります。
宮脇先生の”時刻表おくのほそ道”にも取り上げられている岩手開発鉄道でありまして、盛まで来て素通りは申し訳ないと勝手に思いこみ盛で一泊、朝の便で終点の岩手石橋往復後に改めて三陸鉄道へ向かうスケジュールに決定したのでありました。(宮脇先生は予め岩手石橋にタクシーを呼んでおいて次の行程に向かわれました。)
当日の朝、二両分は無いであろうと思われる短いホームにていざ対面となったわけでありますが、確かに面構えはのっぺりとして変わっているがそれだけでは無い、先頭車によくある連結器周辺を保護するためのカバーが無いため下回りがやたらスッカスカなのであります。
とは言え、乗ってしまえばよくあるローカル線と一緒なのでありまして他との違いは、旅客営業は日に数えるほどの本数を単行運転で賄えるのに対して石灰石の貨物輸送は一編成当たりの連結両数も一日の本数も非常に多く、途中駅の交換設備や盛駅と岩手石橋駅の駅構内は非常に広く、貨物(石灰石)輸送メインの鉄道であるということでしょうか。(他の鉄道は貨物輸送もじり貧で最終的には路線廃止に追い込まれるケースが非常に多いように感じるのであります。)
実際にその言葉どおり1992年には乗客数減少により旅客営業廃止となり現在に至っているようでありますが、震災被害により気仙沼に気仙沼線が来なくなり、大船渡に大船渡線が来なくなった中で震災被害を乗り越えて営業を続けていることにただただ敬意を表するものであります。
フィルムカメラ持参の鉄道旅_3 に続きます。
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