42年後の事実

還暦爺さんの世迷言

小さい頃から野球が好きなのでありまして、小学生の頃は知識が無い故に漠然と野球部に入ってみようかな、ということも考えていたのであります。ただ年齢を重ねるごとに情報が入って来るのでありまして、学校の授業前に練習があって、放課後も暗くなるまで練習があって、夏休みや冬休みには合宿があって・・・、つまり厳しいということがわかって野球部入部は諦めたのであります。一番効いたのは某強豪校の練習休みが元旦のみであると聞いたことでありますね。要は怠け者なのでありますよ。

高校時代の夏の甲子園神奈川大会

最近、1980年夏の甲子園優勝メンバーである愛甲猛氏がYouTube配信で数々の楽しい(当事者にっとてはシャレにならない)エピソードを披露されているのを視聴して1979年7月23日を思い出しました。この日、私が在籍していた高校が愛甲選手率いる横浜高校と夏の甲子園神奈川県予選の試合を行なったのであります。

結果は0対4で我が校は負けてしまったのですが、途中までは横浜高校先発の川戸投手相手に得点チャンスをつくり、同級生と応援(実は観戦)していた私はもしかしていけるんじゃねぇか?と思ったほど意外な試合展開だったのであります。

しかし、横浜高校の渡辺監督は川戸投手を不調と見たのでしょうか、早い段階でエースの愛甲投手と交代したのであります。細かい試合展開は覚えていないのでありますが確か前半のことだったと記憶しています。

そして、交代した愛甲投手の投球練習を見た私は一気に現実に引き戻されることになったのでありました。ストレートは速いし、カーブは信じられない位ブレーキが効いているし、これは打てないだろうなぁ、と思っていたところやはり打てませんでした。

ただ、横浜相手にコールド負けしなかった、あと少しで一矢報いることもできたかもしれない、もしかしたら横浜高校の選手は監督から説教されてんじゃねぇかな、と同級生と語らいながら帰途に着いたのであります。

その後の展開

自分の高校は残念ながら敗退しましたが、もともと野球好きですのでその後の横浜高校の試合をTVや新聞で追ったのであります。次の試合では我が校と似た境遇の県立高校相手に2対0の辛勝、それでもなんとか決勝までコマを進めたのでありますが、決勝でジャンボ宮城投手擁する横浜商業に負けて横浜高校の1979年夏は終了したのであります。勝った横浜商業は甲子園で準決勝まで勝ち進みその年の優勝校である箕島高校に敗退しました。

翌1980年、我が校は強豪校と対戦すること無く二回戦で敗退しましましたが、横浜高校は神奈川予選を勝ち進み、甲子園で優勝を果たしました。一回戦と二回戦はそこそこ点が取れて良い試合展開で勝てましたが、三回戦の鳴門高校戦からは接戦の連続で、準決勝の天理高校戦は先制を許し、決勝の早実戦は先発の愛甲投手が途中降板を余儀なくされるほどの苦戦を強いられたのであります。

そして優勝の瞬間、マウンドに立っていたのは昨年の予選で我が校が試合前半でマウンドからお引き取り願った川戸投手でありました。

甲子園での横浜高校の試合は全てTV観戦していたのですが、横浜高校優勝の瞬間は両手を挙げて勝利を喜ぶ川戸投手を見ながら、「うちの野球部はこの投手を追い詰めたんだよなぁ。」と、去年の我が校の善戦を思い出し感慨に耽ったのであります。それ以来、横浜高校や愛甲選手の話題が出るたびに1979年の夏を懐かしんでいたのであります。自分が参加したわけでもなく、ただ試合を観ていただけなんですけど。でもまぁ、良い思い出なのであります。

42年後の事実

さて、あれから40年を2年ほど過ぎた今年(2021年)、当時の高校野球のメンバーさんの殆どが第一線から身を引かれましたが、YouTube配信等により当時部外者であった私たちに非常に楽しい話題を提供していただいておりまして、全く有り難いのであります。

特に愛甲氏が横浜高校からロッテオリオンズに入団した当時、張本、有藤、村田、落合、リー兄弟が現役バリバリで、その中に放り込まれた旨お話された時、自分がが如何に温い世界に居たのかということを思い知らされました。私は授業に付いて行けずひぃひぃ言っておりましたが、所詮人間界の話でありまして、同じ時期同じ年齢の人間が修羅の世界で必死に生き延びていたことを知るにつけ、自分の甘さが身に染みた次第であります。

まさかあのようなゴタゴタがあったとは。

そして今年の11月、産経新聞のコラム”話の肖像画”に登場したのは愛甲氏の高校時代の恩師である渡辺元智横浜高校元監督であります。

ご自身の生い立ちから横浜高校監督時代のお話まで様々内容が興味深く語られたコラムでありますが、連載17回目(2021年11月19日付け)の終わり近くに大変な文章が書かれておりました。

秋の国体敗戦直後からのいざこざが書かれていたのであります。詳細は省きますが愛甲選手が野球部を辞めたいと監督に告げてからいろいろとあって冬場の練習に参加していなかったとのことでした。連載18回目(2021年11月20日付け)の終わりの方に決勝戦(横浜商業戦)での敗戦に対して「愛甲が冬の練習に出ていてくれたらなあ」と無念さが湧いたとのことです。

つまり我が校が善戦した横浜高校はいざこざ明けの初戦、我が校は一回戦を勝ち抜いて調子が良かった、加えて横浜高校先発の川戸投手は愛甲選手不在の間はエースと持ち上げられ、愛甲選手復帰と同時に控えに回され、もしかしたら忸怩たる思いを持ってのマウンドだったのかもしれません。

一難去ってまた一難の見本のような出来事でした。
偉い人(監督)の意思で自分の立場が上下したらいろいろと考えますわな。偉い人もしんどいですけど。

勿論、これらは私の想像妄想憶測に過ぎないので「我が校野球部は強かった」で充分なのであります。ただ、愛甲猛氏のYouTube配信と渡辺横浜高校元監督のコラムという意外なところで42年前の情報が繋がってしまったことに私は一人ニヤニヤしているのであります。

42年前は修学旅行で四国初上陸を果たした年でもありました。神奈川県立座間高校二年生の時であります。光、光あり、座間高校

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